love²=hate!
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まとめられないまま世の中に出すのは怖い。
☆すなわち神に反抗するサドは、絶対君主制に反抗するサド、ロベル・ピエールに反抗するサド、ナポレオンに反抗するサドと一つのものである。どんなやり方であれ、人間の主体性という光り輝く宝を近くから遠くから占有しようと狙っているものに対しては、サドはことごとく反抗するのである。(P216) ☆「私は自分の神聖だと思うものすべてにかけて言うが、創造者を敬うために非創造者を傷つけても良いと思っているような神の信徒の教え何ぞは・・・」(P245) →サドに権力欲はない。自分を敬わせるための行為ではない。 ☆有名人のポートレート 評論家A「○○という人物の個性がよく写し出されている」 →パブリックなイメージに忠実なだけでは良い写真とは言えないのでは? ☆濱谷浩「雪国」 ●グラフジャーナリズムと一線を画している理由 ●造形的な面白さを切り取る力だけではないように批評家連中に言わせるその理由とは? ●民俗学的に系統立てたことが要因??? ●研究者の撮影と違うのは? ◎視覚伝達→視覚表象 ☆写真には撮る人の気持ちが浸透していくもの(評論家A) →そしてそれが見る人に伝わっていく。 →見る人は様々な解釈で受け取る。 「印画紙の上ですべてが出会う。」 自分が一方的にわかって欲しいのではダメ。 まなざしが示す→価値観・美意識・倫理観 ●写真家「吉田公子」 同じ、自らを被写体にし、自らを異化させている作家、鈴木涼子や澤田知子に比べて圧倒的に表現が古く見える(新しさがない。ださい。)のは、むしろ「自分を表現する」ことによって、客観的になりきることができきれていないためではないか? 鈴木涼子や澤田知子の組み立て方、系統立て方。 ●経済としての写真 人間性を維持するために絵画などのように購入できる。 12月21日阿佐ヶ谷 ●ポートレート(→形而的要素・警告の意味が含まれている、ように見える)とファッションストリートスナップの違いは? ●ギャラリーは仕掛けを用意し経済的な価値を付ける。美術館はもっと高尚な価値をつける。(わはは。) FAD 日本の市場ではアノニマス(アノニマス (anonymous) は、「匿名」を意味する英語。)が売れない。 70年代 大道・中平 「アノニマスを受け入れない」日本独特の社会に対する逆説的な怒り・provoke。 写真は原稿である→写真にした時に別物になる→じゃあなんになるの?(答えを見つけること。) 写真はそれ以上でもそれ以下でもない。 70年代を過ぎ、中平を失い、80年代を耐え、資本主義のピラミッドの頂点に(本人の意図とは関係ないところがポイントとなる。)突き抜けたことで、今、北海道の写真を出せたのでは? ☆価値付け 写真の価値を付けてんのは誰? ☆携帯メモ ●性善説は神様の責任逃れでしかないじゃないか。 (P224) ●「これだけ発展したイメージ社会の中、そんな単純な写真ではもう人の心は動かない。写真を見た途端に『ああ、またか』とろくに見もせずに解説に目が行く。だからこそ僕(サイモンノーフォーク)は想像する余地のあるランドスケープ写真を選んだんです。」 →結局ペンに勝るものはない? 写真が発明されて、文字だけの媒体が淘汰され、新聞には写真が掲載されるようになった。それにより、人はどこで何が起きているのかをより鮮明に受信できるようになった。 しかし、時が経ち、「これだけ発展したイメージ社会」になり、解説を読めば「似た」状況を容易に頭の中で再生できる。→ペンがまた求められる状況に? なんにしても、何かが発明されると別の何かが淘汰されるものだけれど、敗者復活もあるのだね。 ●そこ(戦場や頭の中や)で何が起こっているのか知りたいという知識欲を満たすために与えられた時間や収入ではかなわない、アルイミそれを満たしてくれるのが写真。 また、起こっていることすら知らなかった事実をしるための ●波、火、空気中のほこりを見る。 フォーカスがぬける ●ある一種類のものを写真に撮り、大量にコレクションしてそれらを系統立ててマス、もしくは塊として見せることによって生まれるある種のすごみは実際に存在する。 歴史を踏襲するのは歴史上あることだが、ある一定のところを越してしまうと安易にうつってしまう。 ●クレジオ「物質的恍惚」
ここんとこ、忙しいのにかまけて外食ばっかりしてたので、休みだからって明るいうちから夕飯作りました。
すいとん!! ねぎー。せろりー。ごぼうー。しいたけー。えりんぎー。たけのこー。だいこんー。にんじんー。とりひきー。しょうゆー。さけー。しおー。みそー。こくとうー。こぶー。かつおぶしー。こむぎこー。みず!!
今日、早稲田大学に久しぶりに行った。
私の担当教授のHさんが公開講座をやるというので。 Hさんは、同じ写真という世界の人なので、というか、Hさんがいたから私は今も写真に関わって生きているわけだけど、卒業してからもちょくちょく仕事先であった。大阪芸大では仕事の後に新世界で串あげ食べたり。東川の仕事も一緒にしていた。 昨年、ちょうど筑紫さんが癌だって公表した日に、Hさんも癌の宣告を受けました。 それからすぐ入院して、手術。 結局他にも癌が見つかり、今は投薬治療をしています。 プリングルスのおじさんのモデルではないかってくらいプリングルスのおじさんに似てて、その太鼓腹の栓を抜くと赤ワインが出てくるって噂だったくらい太ってて。 でもちっちゃくなっちゃった。 昨年、安楽寺えみさんのRATのオープニングであった時は、まだ痩せたなーくらいだった。そのくらいだったのに、ちょっと涙が出た。 先日のパリフォトで会った時、私はHさんに気がつかなかった。 知り合いに、あそこにHさんいるよって言われて、本当にびっくりした。 誰だかわかんないくらい、ちっちゃくて、投薬治療がどれほど厳しいかよくわかった。 パリが大好きなHさんに、パリで会えて本当に嬉しかった。 今日、本キャンの8号館の308号室に遅れて入ったら、濱谷浩について話していた。 いや、正確には、濱谷浩の「雪国」を複写したものをスライド上映して、一枚一枚の写真について話していた。 話している内容は、写真についての説明で、古い日本の美しい文化であることには間違いがなかった。 これは○○という行事です、とか、これはその行事に使う○○です、とか。 そんな感じで、濱谷浩の他の三冊の写真集についても一枚一枚話していった。 誰かものをよく知っている人と一緒に本を読んでるみたいな感じ。 それは、とても退屈だった。 Hさんの知識やなんか、そういうものに私はまだ全然追いついてないし、一生追いつけないかもしれない。 私が聞きたいのは、そんなことではない。 もちろん、それ以外にも濱谷浩が他のグラフジャーナリズムに比べてなぜ優れているかについても話していたんだけど、決定的な答えを導かせてくれるものではなかった。 写真というものは、世間や評論家、雑誌の力で評価を高くすることも低くすることもできる。 なぜなら、文章や、映画などのメディウムと違い、カメラという機会が介在することで客観性が増し、非常に読み取りづらい表現方法だからだ。 濱谷浩という作家がある高さの評価を得て、プリントもヴィンテージはいい値段がつくこと、あの有名な山の写真なんて、確かにとってもいい。 それは、私にもわかる。 でも、とにもかくにも、その授業が物足りなかったことが、すごく悲しかった。 でも、あたし、ちょっとは成長したよ、と先生に言えると思う。 でも、成長したと思える理由が、先生の授業への物足りなさだっていうのが、悲しかった。 おしまい。
たった2日でスランプ脱出。
ひきこもり(メンタル)は二度としない。 なにがあってもどんなに嫌でも、誰があたしに愚痴っても友達のダメなオーラを背負い込んでも、あたしのことを、外側だけで判断するバカが、デリは力技でうんち(ストレス)を出すとかどっかのSNSに書きこんでも、笑ってあげましょう。 笑ってるから、ドンと来てください。 大概の時は機嫌が良くてそれ以外の時は眠っている。 そうやって、前にも書いたの、忘れてた。 ぴーんって前向いてダッシュします。 死ぬまで暇つぶし。 オーライです。トップギアです。
人の気も知らないで好き勝手やってる。
というのは間違いで、人の気も知らないでって思うなら、相手に伝えなければならない。その「気」を。 でも既に伝えるタイミングも済ませてしまったし、自分に所属していない人が何をしようと、私がそれに対して怒る理由もないし、だからただ落ち込むしかないわけです。 好き好き大嫌、い。 大嫌いになりたいんじゃなくて、知らない人になりたい。 たまたま聞こえてしまった君の行動を思って落ち込んだりしたくないんです。 たまたま聞こえてしまう範囲に君がいるからあたしはダメなんです。 いろいろ重々承知なんです。 君がそういうことをする人だってことも。 あたしの家のソファで寝て、そっから合コンに行くような人間なんだもん。 あたしが好きなのは、違う人だもん。 ばか!!嫌い。 |
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