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どうも、the contoursの左から二番目の人です。

今から寝るのですが、do you love me を久しぶりに聴きたくて、12"を引っ張り出して聴いています。

シェケラッシェケラッ♪





あははははー。

今朝、二度寝をしたら、とある人が登場して、手をつなぎました。
ものすごいリアルにドキドキしたのですが、私、寝てる最中も動悸がしているのかと思ったら、かなり心配になりました。

心臓は大事にしたいものです。

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中村紋子の写真と悪意

世界と一番積極的に関わる10代後半から20代を1990年代に過ごし、現在、若手と定義される作家たち。
私もまた彼らと同世代の76年生まれである。
小さい頃から居間にはテレビがあり、テレビは、地球の反対側で人々がどのように生活しているかを伝え、地球のどこで新しい戦争が始まったかを知らせた。
マルチメディアという言葉が身近なものになり、研究者や特化された人々のものだった、コンピュータをはじめとする、より速い伝達の手段が簡単に自分たちの手に入るようになった。そうして世界が徐々に狭くなっていく過程とともに育ったからこそ、それを否定することも肯定することもせず、明確な態度を打ち出さずに参加し、最も敏感に冷静に観察していたのはこの世代ではないかと思う。

70年代生まれの写真家の作品に共通するのは、被写体の不思議さや決定的瞬間、記録という写真本来の機能、そういった既存の写真の原理を踏襲してはいるものの、その手法や表現方法にあらたな技術やメディアを軽やかに持ち込み、この世界への自らの態度をイメージ化していることであろう。

1979年生まれの中村紋子は、この世代の作家であり、彼女もまた、その作品によって社会と自分との関係性を明確に描き出す。

中村紋子の生まれ育った日本に限定して言えば、この世代が思春期を迎える1991年、バブルがはじけ、経済が破綻した。学業を修めて社会に出るべき時期は「就職氷河期」と呼ばれ、職に就けないまま家にひきこもる「ひきこもり/ニート」と呼ばれる人口が最も多いと言われるのもこの世代だ。
「高学歴=経済的に安泰な人生」という安易な神話は、バブルの崩壊とともにあっさり崩れ去った。盲信的に学歴神話を信じ、よりレベルの高い大学に入学するためだけに生きていた我々より少し上の世代の(当時の)若者は拠り所を失った。生活に根付いた宗教を持たず信仰の中に暮らさない我々日本人は、拠り所をなくした時にどうなってしまうのか、その答えを暗示するかのように1995年、地下鉄サリン事件が起きる。
カルト新興宗教のオウム真理教が地下鉄構内で毒ガスのサリンを散布し多数の被害者をだした。行き場を失った若者に生きる場所を与えることにより洗脳し、宗教理念という大義名分のもと、大勢の人を死に追いやったのだ。
カナダの作家、ダグラス・クープランドがこの事件を題材に「GOD HATE JAPAN」という小説を書いている。主人公のヒロは1975年生まれ、東京から1時間かからない埼玉県というサバービアに生まれ、サラリーマンの父と専業主婦の母、ブランド好きの姉というごく普通の家庭に育った。しかし高校時代の同級生がモルモン教に入信、20歳の時に地下鉄サリン事件が起き、親友の妹が事件の被害者となる。
「任意に選ばれた一人≒(nearly equal)全員」であるとするならば、小説の中のヒロは、中村紋子であり、私であり、同世代の日本人すべてである。
地下鉄サリン事件以降、1997年の神戸連続児童殺傷事件(数ヶ月にわたり、複数の小学生が殺傷された事件である。通り魔的犯行や遺体の損壊が伴なった点、特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれた点、地元新聞社に「挑戦状」が郵送された点など、強い暴力性が伴なう特異な事件であった。また犯人が自らを「透明なボク」と称する、いわゆる「普通の中学生」であった点も社会に衝撃を与えた。)をはじめ、物事や人命に理由がなくなっていくという現象が増えていった。それは実体のない、得体の知れない「闇」のようなものだった。

画家としての中村紋子が「ウサリーマン」という愛すべきキャラクターを操り表現するのは、不完全さを内包した完璧な世界だ。しかし、平和という幕に包まれたこの完璧な世界は、「完璧を装った世界」であり、その絵の中で「ウサリーマン」たちは「完璧な世界」を信じて生きている。中村は彼らを批判することをしない。一見、笑いの中に皮肉を交えたように見える彼女の描く絵はディスではなく、大きな愛なのだ。
一方、写真家として写真を媒体として作品を創る時、中村はその隠された不条理を暴き出す。彼女が特異であると言えるのは、強烈な悪意を武器に「完璧な世界」という脆いオブラートをはがしながら、穏やかな普通さを強く求める二面性を抱えていることである。

Silence of blueの大半を占めるイメージは私に夜を連想させる。
ジョルジュ・バタイユが「ジル・ド・レエ裁判」(1959年)の中でこのように言っている。
「犯罪は明らかに夜を招く。夜がなければ犯罪は犯罪ではないだろう。しかし夜がどんなに深いとしても、夜の恐怖は太陽の輝きを渇望する」

博物館に鎮座するかつて息をし、生命を営んでいた動物の骨。
闇と街灯。
夜の水面に反射し揺れる木。
朽ちた鳥の遺骸。
神や、それ自身の意志に反し、生きていたときと同じ姿で立たされている熊の剥製。
クローズアプされたブーケの美しさは、その毒々しさによって引き立つ。

一方、その中に配された、穏やかな時を過ごす老夫婦の後ろ姿や森の中にさす陽光は、中村が手にしたいと欲する「穏やかな普通さ」であり、新たな生命の誕生の瞬間は、社会がどれほど不安に埋まろうとも新鮮な驚きを持って繰り返す希望であろう。

「この時代に育ったからこその愚鈍さ」を身にまとうことのできなかった中村は、画家としてではなく写真家として「写真でしか表現できなかった」Silence of blueを、「自分が差別化できることを知っていることの証明だ」としている。
中村は不条理への違和感や不安という世界の秘密を知ってもなお、いや、暴くことによってそこに希望を見出す。それは「知ってしまった」という罪を他者と共有することで、「私なりに信じている愛についてのお話」を恒久的なものへと昇華していくためのプロセスなのではないだろうか。


北海道はでっかいどー。


てなわけで、また北海道にいます。

反省点の多い自治体主体のイベントは、穴だらけ。
企画なんて、山ほど思いつくのに、ここのxxは思いつけない。

だからって、どうしていいのか、わかんない。

とにかく、大変だけど、東川が好きなので、どうにかしたい。
いろんなイベントとくっつけて、やればいいのだ。

ジャーシャカ呼べばいいじゃん。笑




「岬」「枯木灘」「地の果て 至上の時」は、中上健次の多くある小説の中でも、竹原秋幸三部作として知られているけれども、文庫本の解説で柄谷行人が言うように、浜村龍蔵三部作なんじゃないかと思う。

三作を続けて読むと、この三部作は、竹原秋幸の思春期から青年期までを彼を取り巻く血の濃い人間関係の葛藤を描いているように見える。
また、被差別部落としての「路地」と日本国の戦後以降バブルまでの「時代状況の暗喩」として読むこともできる。

けれども、それだけじゃない異常さで、まったく感動作でもハッピーエンドでも、いわゆる悲劇でもないのに、胸に大きな塊がひっかかったみたいになる。

今日、やっと「地の果て 至上の時」を読み切った。
大学の時に、この三部作の最後、「地の果て・・・」を読み切れなかったのは、「岬」や「枯木灘」と比べて「地の果て・・・」は路地の生活や社会状況よりも、秋幸の実父・実母、義父や腹違いの姉との心情的な葛藤と、「枯木灘」後、消え去ってしまった路地への心情に、より重点を置いて書かれていたからだと思う。
それは当時から私小説、とか、私写真というワイドショー的なものに興味のない私にはあまり響かなかったらしい。

けれども何年ぶりかに読み終えて思うのは、「地の果て 至上の時」という小説が、「岬」、「枯木灘」に遥かに秀でているということ。それは、中上健次という作家が無意識としか思えない非凡さで浜村龍蔵にこう語らせているからだ。

「どっちにしてもわしは一たす一は一じゃし、三ひく一は一じゃと思とる。切手ほどの土地から始めたわしの計算方法での。わしも生きつづける。浜村孫一も生きつづける。秋幸も生きつづける。同じ一じゃ。同じ種じゃ。わしは杉や檜にヤキモチ焼かん。人に何と思われようと一は一じゃ。0じゃない。何しろ一じゃ、わしが生まれた時から始まっとったし、お前がフサの腹から生まれるときから始まっとった。わしもお前もこの世におると言うたらおる、おらんと思たらおらん。こうおまえと話しとるのもその昔、片目、片脚の孫一殿がその潰れてない片一方の眼で見た中の、昼の夢のような出来事じゃ。みんな見えとったんじゃよ。一に何を足しても一じゃし、一から何を引いても一じゃ。仏の国を夢みて負けて裏切られ続けた孫一殿は後の世のことまで知っとったんじゃの。」

この言葉が、朋輩のヨシ兄が息子の鉄男に撃たれた翌日、首をくくって死んだ龍蔵の自殺の真意そのものだろう。彼にとって、死ぬことほど簡単なことはなかったと言える。
「カモメのジョナサン」を著したリチャード・バックの「ONE」が言いたいことはこの龍蔵の長い台詞の中にすべて入っている。
これは田舎の、教育も受けず、乞食同然に育てられ、方々に女を作り、女郎にした女を籠抜けさせ、そしてまた女郎に売り、人を殺め、放火をして成り上がった男の言葉だ。
本能と生き抜く知恵(悪知恵?)だけで、人間として生き、息子が腹違いの弟を殺し、そしてその息子が見ていることを知りながら目の前の暗闇の中で首をくくる男である。
ここまで意味のない自殺が、完全に存在することなど、他では不可能であろう。
素晴らしい。

ガルシア・マルケスの「百年の孤独」のような「千年の愉楽」でオリュウノオバに語らせた路地の濃い血の話から、オリュウノオバが死に、路地が60年代後半からの戦後バブルで消え、「枯木灘」後、秋幸の実母であるフサ、その夫であり秋幸の義父である繁造、種違いの姉の美恵、夫の実弘らは龍蔵を憎みつづけるものの、あっさりとそのルーツである路地を捨て、こぎれいな服を身に着け、いい家に住むのだ。
この時、彼らは偽善者であり、秋幸一人が路地への郷愁に取り残され、カミュの「異邦人」ばりに人非人と指を指される。

多分、あたしがこの本を読み終えて胸に大きな塊があるように思うのは、読み終わってしまったという喪失感かもしれないなーと思う。

ていうかなんてすごい小説なんだろう。(今更。)


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