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鈴木理策「風を見る 山に触る」展
@Photo Gallery International 展評 例えば、断片は連続性によって認識され、連続性はいくつもの断片によって存在する。闇無くして光が存在し得ないように。 鈴木理策は、WHITE SAND、KUMANO、PILES OF TIME、SASKIAとこれまでの作品で様々な物語を語ってきた。撮影というリアルタイムな行為、現像、プリント、セレクションという一連の作業工程、そして最終的に我々の目の前に提示される、ライブとしての写真展。これらすべての行為を通して再構築された彼の時間や記憶をシークエンスで見ることによって彼の道程を目の当たりにし、追体験として視覚から体内に摂取する(=体感する)ことができる。 それはある意味、ロードムービーを見る酩酊感に似ている。 ジム・ジャームッシュは、その作品の中で「線」としての人生を描いた。 幾人かの人間の「線」が偶然や必然によって、右へ曲がったり、左へくねったりしながら進んでいく。また、他人の人生とくっついたり離れたり、またそれを繰り返したり。言うまでもなく「線」は無数の「点」の集合であり、人生は瞬間の集合だ。ここで作用する偶然や必然は「線」としての人生を構成する「点」である。 鈴木理策は常に写真というツールを使い、この「線」と「点」としての人生を切り取り続けてきた。彼の写真は「点」であり、写真集や写真展によってそれらは「線」を構成する。 今回、「風を見る 山にさわる」と題し、木村伊兵衛賞受賞後第一作目として鈴木が見せてくれるのはサント=ヴィクトワール山。フランスの画家セザンヌが30点以上もの油彩画に描いた山だ。我々が鈴木理策を追体験してきたように、彼もまたセザンヌを追体験したのだろうか。カメラというフィルターを用い、鈴木に再構築されたサント=ヴィクトワール山が眼前に現れる。 会場のある二階へ上がるとぽっかりと洞窟のような暗闇が我々を迎える。 作家の時間を追体験するにはここに足を踏み入れなければならない。中へ進むとセンサーが人の動きをキャッチし、まるで見るものを誘うかのように、一点一点にスポットが点灯する仕掛けだ。 8x10で撮影された八点の作品は、オーソドックスな展示よりも大きく間がとられている。 ひょろ長く伸びる木。 風に揺すられる葉っぱや花。 ゴツゴツとした石灰岩の岩肌。 そして遠景。 スポットが点灯するわずかな時間の誤差で思考が遮断されることによって、今まで鈴木理策が表現してきたシークエンスの中の写真よりも「断片」としての効果を強く持たされているように思える。そしてこの「断片」を強調することでこれらの作品はさらにつながりを深め、「山頂まで続いていく時間」というシークエンスを見いだすことになった。 同種でありながら異なる意味付けをされる「A」(=断片)と「B」(=連続性)は同時に存在する。 だからこそ我々は鈴木理策が強調する断片の中に連続性を見いだすのだ。線上にある点は無数だが、鈴木は八点というわずかな点で線を描いてみせた。それは彼の写真によって表現される静かな神性をもって初めて現れる。信仰の中に暮らさない我々に神が現れるのは、常に断片としてであり、それが真実だ。 高橋 朗(2001.8) PR
プロだね
今写真が横にないのに最後まで興味もって読めたなんていい文章なんだろうなぁ。ちょっと毛色違うアントン(コービン)だけど、例の映画作ってるとき彼も点と点の間のドラマを撮ろうとしたなんていってたなぁ。デビ~。
無題
全然イニシャルになってねえじゃん(笑)デビー
おーちゃん
ムフフ。ほら、書き直し。ムフムフ。
チョッキがひどい文章を美手帳かなんかに書いてて、ひどいなー、って思って、書いたの。 理策さんに見せたらOKでたんだけど、結局どこにも掲載されず。。。 |
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